翻訳学入門

翻訳学入門

翻訳学入門

タイトルどおり翻訳学 translation studies の入門書で、僕はこの分野について詳しいわけではまったくもってないので確かなことはいえませんが、個人的にはとても面白かったです。翻訳学の系譜が論点ごとに紹介されていて、歴史上翻訳についてどのような考えがあったのかがよくわかります。この本によると翻訳の歴史は、我々が受験英語などで一番慣れ親しんだ言葉で言うと「直訳」と「意訳」という二つの概念の(不毛な)対立が多くを占めています。この対立はキケロや聖ヒエロニムスのころからあり、名前をさまざまに変えつつも長い間底流を流れ続け、翻訳の歴史を支配してきました。どのようにこの対立を脱構築して新たな考えを導入することにより翻訳という営為を理解し、向上させるかが翻訳学であるということもできるでしょう。翻訳は原文を忠実に再現しなければならないというテーゼがあります。これを否定することは難しい。じゃあ「忠実な再現」とはいったいどういう意味なのか? これが当然問題になります。 当たり前ですが完璧な翻訳は存在しません。「翻訳者は裏切り者」というやつです。それは言語や場所や時間の本質的な違いから生じてくるため、直訳でも意訳でも不十分になってしまう。それならよりよい翻訳のためにはそのようなゆがみがどこに、どのようにして起こるのか見極めなければならない。ナイダはヤコブソンの「等価」(翻訳元と翻訳先で価値が同じであること)を援用して「形式的等価」と「動的等価」という分類をしました。形式的等価はテクストを志向し、テクストに忠実であることを目指すのに対し、動的等価はテクストそのものよりもテクストの生み出す効果、テクストとその読者の関係を重視するものです。このように、ただ忠実な翻訳をしようというだけではなく、どういう意味で等価であるかを分析することにより翻訳学は進歩していきます。そして、認知科学言語学、批評理論などと結びついて多用化・精密化します。中でも、多くの紙幅が割かれているのは、翻訳という行為を文化的な広い視野から捉えようとする動きです。翻訳は決して単独である行為ではなく、社会の中で行われる行為です。つまり社会に規定されています。それは翻訳する際にある国にはあってほかの国にはないものが出てきたときなんかにあらわになります。そういう大きなシステムの一部として翻訳を考えようとしたのがイーヴン・ゾウハーでした。システムの力は翻訳の途中だけに及ぶわけではありません。どんなテクストが誰によっていつ何語から何語に翻訳されるか。そういう段階ですでに力が作用しています。明治維新のときに日本は西洋のテクストを大量に輸入しました。「進んだ」西洋の技術や文化を学ぶためです。この翻訳には明らかに権力の働きがあります。遅れた国は進んだ国のテクストを強制的に翻訳させられるのです。現在世界中で英語が学ばれているのも英語とアメリカが、かつてのイギリスが強いからです。文化を取り入れるということは同時に侵食されるということです。そして翻訳者はこのようなシステムの歯車のひとつです。気付いたときにはすでに加担しています。権力による弱いものいじめはテクストの内部でも起こっています。たとえばゲイや女性の書いたテクストが翻訳の際にはそのような性格を薄められ、社会の規範に沿うように変えられてしまうという事例があります。このような状況の中では翻訳する、あるいは翻訳を読んでいるだけで権力に加担してしまう恐れがあります。だから翻訳にかかわる者(出版社、翻訳者、そして読者)は翻訳学を学ばなければならない。しかし僕が学校で受けてる翻訳の授業では理論とかやらないでひたすら実際の翻訳をやるか、あるいは理論をやるにしても「翻訳の不可能性」みたいな空虚な神学(こういうのって神学を誤解・侮辱してるんだろうな。「文学的」や「哲学的」という言葉がいかに文学や哲学とかけ離れて使われているかを考えてみると)をやるかで、批判精神が足りないですよまったく。翻訳が権力のシステムの中にあるということを読者に印象付けるために翻訳は異質性を持たなければいけないという人もいますが、実際の翻訳の場面ではなめらかな翻訳が是とされて、そういうほうがうけるからそういう翻訳ばかりになりますが、時には人が嫌がることでもしなければならない。ここらへんは政治の話がなかなか日常で出来ないのと通じる話ですが。
しかし、翻訳理論をいろいろ考えるのはいいけど、それが実際の翻訳に寄与できるか、理論を学んで翻訳が上達するかと考えてみるとなかなか気持ちが暗くなります。理論的には確かによくなるはずだが、実際の翻訳がうまく出来ないという現実に負けそうになる。しかし理論はそういう現実を打ち倒すためにある。そのためには現実とも付き合って語学力をつけなければいけないわけですが・・・。この本にはほかにも他メディア翻訳とかコーパスを使った翻訳とかいろいろあって面白いです。ファンサブの話とか。動画サイトにおけるアニメの字幕についての研究とか読みたいですね。
ところで僕が特に興味を持ったところ。ジョージ・スタイナーが原テクストと翻訳テクストの比較や生成文法の考えを用いてテクストの間に「完全な個人語という詩人の夢に近い」テクストを見出すというところにものすごくしびれたのですが、このような考えは今では時代遅れだと書かれているんですね。確かに普遍文法的な考えって文化の個別性を重視する立場とは相性が悪いし、文学は言語と切り離せないということはわかるんですが、理論的に考えようとするなら普遍性を志向するのは避けられない。それにじゃあ翻訳ってなにを翻訳しているのよ? という話で、翻訳が可能になるのは言語を超えた内容があるからとしか考えられない。だから前衛的な詩は翻訳不能である、みたいな話も出てくる。そうすると原テクストの作者は普遍的内容と言語と切り結んで原テクストを作成するということになって、翻訳者とあんまり変わらないじゃないかということになる。翻訳は原テクストの言語から内容を取り出してそれをある言語に変換するわけですから。そうすると原テクストの特権性は失われて、翻訳ともども普遍的深層的内容の投射であるということになる。うーん、やっぱり言語と切り離された内容があるという考えはまずいかな。でも言語と言語しかないという方向だとそれ以上考えようが無くなってしまうのでよくない。人は言語だけでなくイメージでも思考するわけですし。ここらへんはモデルの再検討が必要になる。『バベルの後』読もう。あ、翻訳の際に翻訳者の中で起こってることを眼球の動きとかから測る、みたいな話もありました。実験とかまじ最高ですよね。もう文学なんて全部統計とか脳科学で解決しちゃっていいよ。

なんとなく追記、というか本からは離れて
テクスト間関係操作としては、つなげる、断ち切る、元テクストを改変する、先テクストを改変する、がありますね。これだと一対一関係しかないので不十分だが。翻訳は元テクストへの依存度が非常に高くて、他メディア翻訳とか翻案とかになると少し下がるけど、それでも普通よりとても依存度が高い。言い換えれば自立性が低い。