モバゲーと生活保護
生活保護のお金で課金するとか、そういう直截的な話ではありません。
モバゲーというか、詳しく知っているのが『アイドルマスターシンデレラガールズ』だけなのでそれで書く。資産形成ゲーであるモゲマスにおいて、稼ぐ方法はいくつかある。1.課金 2.イベントで走る 3.ちまちま 4.人からもらう などである。それらには金、コミュ力、時間、思考力といった能力が必要とされる。だが、ひとつほとんどいかなる能力もリソースも必要とされない稼ぎ方がある。それは通常お仕事のエリアボスを倒すことである。これによって通貨であるスタドリやエナドリを一個づつとはいえ手に入れることができる。もちろん、これで大量に稼ぐことはできない。エリアボスはぞれぞれ一回しか倒すことはできず、その数は解放されたステージ数によって制限されているからだ。そもそも、労せずして大量に稼ぐ方法があったらゲームが成立しなくなってしまうのだから、この稼ぎ方の楽さは数が制限されていることとセットだといえる。言い方を変えれば、楽に稼げるのはこれだけだから、後は何らかのリソースを使って稼げ、とゲームの側が宣言している。
で、タイトルに近づいてきた。ゲームのプレイヤーはゲームに参加する権利を与えられている。通常お仕事をこなしたり、イベントに参加したり、LIVEバトルを挑んだりできる。これを基本的人権のようなものと見ることができる。しかし、それ以上のこと、LIVEで勝ったり、イベントで上位に入ったり、レアなアイドルを手に入れたりすることまでは保証されていない。自由競争の世界である。その中で、誰でも稼げる少量の資産が予め用意されているのは、生存権を保証する手段といえる。少量とはいえ、安いレアアイドルなら充分に買うことができるから、トレードし、強いアイドルや好きなアイドルを集めるという文化に参入することができる。
ところで、プレイヤーに与えられているのは厳密には人権ではない。その単位は人ではなくアカウントである(モバゲーアカウントは携帯電話に紐付けなので)。つまり、携帯を複数持っていれば一人の人間がアカウントを複数持つことができ、複数の基本的人権を持つことができる。人権はスタドリとして定量化され、トレードによって集約することができる。この快感は圧倒的である。現代の社会で尊いのは唯一人間のみだ。だから所有して価値のあるのは人間だけであり、人間の成長とは複数人になること以外にありえない。
メモ:『アイドルマスターシンデレラガールズ』
バハムートとゴブリンがいればどちらが強いか、どちらがレアかは明らかだ。織田信長と滝川一益でもしかり(歴史よく知らないので滝川はゴブリンの格ではないかもしれませんががあしからず)。たとえば「戦国コレクション」や「神撃のバハムート」はそんな感じの、我々がすでに知っている序列にのせることで自然に、どのカードに価値があるのか納得させる。しかし、人間はみな平等であり、そのような序列は存在しない。けれど、価値の違いがなければ競争が始まらない。よって差をつけなければならない。ここで持ち出されるのが、作品外の事情である。つまり、「アイドルマスター」シリーズに元から存在する765プロ所属とそれ以外の新キャラの違いだ。765プロのアイドルを上のレアリティに位置づけることで、レアリティの高いカード=経験を積み成功したアイドルであり、プレイヤーは好きなアイドルを応援することで成功に貢献できるという現実のアイドルに似た図式が与えられる。ゴブリンがバハムート並の待遇になったりしたら不自然だが、アイドルはみな同じ人間なので、レアリティの昇格が可能である。ここまででわかることは、アイドルがある意味で平等であり、同時にある意味で平等でないことで競争のゲームが成立している、ということである。
カードには外見的価値と内面的価値がある。カードに限らない話だが、外見的価値と内面的価値は比例する(ことを期待される)。
内面的価値はレアリティであり強さになる。シンデレラガールズには現状N,N+,R,R+,SR,SR+の六種類のレアリティがあるが、基本的に([エステル衣装]三浦あずさ+、[戦国姫]小日向美穂+、[スクーリッシュガール]如月千早+の最初から+になっているコラボやアワードでもらえるカード、あと10枚合成のカードは例外)各+は+なしのカードを二枚合成してできるものであって+なしとセットと見なせるので、実質的にはレアリティは三種類となる。弱いRや微妙なSRも存在するが、一般に、レアリティと強さは比例する。手に入れやすいカードが強ければプレイヤーは苦労してレアカードを手に入れようとはしなくなるから、当然のことだ。
外見的価値はカードのかわいさ、美しさ、かっこよさなどである。これを内面的価値と比例させようとすると、どうなるか。強さは簡単にインフレできる。しかし、レアカードのアイドルをノーマルのアイドルよりかわいく描く、というのは難しい。アイドルはみんなかわいいから。そこで、アイドルの外の背景で違いが作られる。NとRは背景がテンプレで統一されているが、SRにはそれぞれ独自の背景がある。これによって状況を描くことが可能になる。たとえばテンプレの背景で水着とか着ていたら寒々しいが、背景が海であれば大丈夫。加えて単純に華やかにできるし、雰囲気を作ることができる。これでN→SRやR→SRは出世したということが明確に違いをつけて表現できる。渋谷凛→[ニュージェネレーション]渋谷凛の変化が分かりやすい。SR昇格にあたって、解像度が引き上げられ塗りが複雑化されている。元々がNのカードとRのカードの違いは、それほどはっきりしていないが、Rのほうがキャラ付けが強烈な傾向にある(双葉杏や諸星きらりや神崎蘭子はいずれもR)。また、N+の衣装は複数人が同じものを着ていることがあるのに対し、R+はひとりひとり別であるということでも差をつけようとしたふしがある。では、N→Rや、N→N、R→R(後二者は昇格はしていないことになる。仮に再登場としておく)の場合を次に考える。このとき、形式で明確な差はつけられないのだから、アイドル自身の姿で差を付けなければならない。それはアイドルの体とアイドルがまとう服、すなわち、衣装とポーズである。衣装はテーマを持つことがある。たとえばクリスマスイベントで再登場する場合はクリスマスっぽい衣装を着る。[パジャマパーティー]のコンプガチャで再登場する場合は、パジャマや、パジャマっぽい衣装を着る。この場合は昇格というよりも、別の角度から見るといったほうが適切だろう。では、テーマにあてはめるのではない場合の、N→Rの昇格はどうだろう。実はこの場合がもっともおもしろいと見ることができる。なぜなら形式に頼ることなく同じキャラの絵で上下をつけるという難しい課題を背負わされるからだ。平等なものに差をつけという課題が純粋な形で投げられ、よい絵の一般的解が示唆される。ひとつの答えは、複雑にすること、である。衣装の複雑性をどのように計るかはいくつかの方法があると思うが、ヒラヒラと、あるいはゴテゴテした衣装などはそう呼べるだろう。たとえば[フラワーブーケ]相葉由美+。ポーズは正面顔を単純なものとして、そこからのズレを見る。この時は画力があった方がいいかもしれない。道明寺歌鈴のようにキャラと服装が強く結びついている場合は、着替えさせにくいために、巫女服(R)→巫女服(衣装R)→巫女服(SR)という風に連投になったりする。そしてSR+は複雑化した巫女服になるわけだ。
ほんとは一枚一枚のバランス調整をエミュレートしてみたいけど、とりあえずこんなところで終わる。
ちなみに以上の文章は依然5M Vol.4という同人誌に載せたものとだいたい内容が同じで、NやRが美少女ゲームの立ち絵に、SRが一枚絵にそれぞれ対応している。
ハーレムラブコメの資本論
一対一の恋愛を規範とする保守的な恋愛観からすればハーレムはシンプルに浮気であり、倫理的に認められるはずもないものだ。しかし、人はある意味で間違っているとわかっていることをなおすることができる。そこには別の正しさが存在するからだ。だから効果的な批判をするためにはまず相手のロジックを把握する必要がある。
一対一で恋愛関係を結ぶことはお互いの欲望を交換する契約が成立すると言い換えられる。しかし告白は受け入れられるかもしれないし、拒絶されるかもしれない。勇気を必要とする運命的な出来事だ。
しかし契約が頻繁に行われると次第に成立するのが当たり前になっていき、あのドキドキは失われてしまう。
経済にたとえるとこれは貨幣の成立に似ている。一対一の物々交換から、一対多の貨幣経済へ。このとき貨幣の役割を果たし、他のものすべてのとの交換が可能なのがハーレム主人公である。このときヒロインは商品となる。商品はみな欲望されることを望むので、主人公はヒロイン全員を愛さなければならない。愛されなければヒロインは価値を失うので、これは倫理的に正当化される。
経済に関して何も知らないので正しいかどうかは解らないが、一説によると現在の日本はデフレ不況であって、供給は多いが需要が足りないらしい。つまり需要の増大が必要ということになる。これは今のアナロジーでいうとヒロインが多くて愛が足りないので多くの欲望を持つハーレム主人公が待望されているということだ。
つまり貨幣が廃止されて欲望経済に移行した世界で各が承認欲求に苦しみ、全体として愛の不足に悩む世界で無限の愛を供給することで全体の欲望に貢献する主人公のラブコメとか書けば非常にクリティカルでかつるのではないか。
ヒロイン・オリエンテッドなエロゲの構築
みたいな話を考えていたことを思い出したのでメモ。
答えから言うと、「ヒロイン一人」ならいい。世界にきみしかいなければきみより大事なモノはない。ヒロインがふたり以上いると交換可能になって欠かせないと思えなくなってむしろ不変の主人公が一番大事だということになる。
トゥルーヒロインの格。最後に位置するだけでは十分でなくて、『DRAGON QUEST Ⅴ』のメインヒロインはゲマなどと言われてしまう。ラスボスが見えてると途中のボスはすべて過程に過ぎなくなるし、見えてないとラスボスがぽっと出になる(田中ロミオの某作品とか某作品)。インフレさせてけばよいが、失敗するとそこからは蛇足になってしまう(『北斗の拳』のメインヒロインは〜)。というのはバトルものの話で、ヒロインはみんな同じようにかわいい(人間がみんなかわいいように)のであって、トゥルーヒロインを引き立たせるためにそれ以外のヒロインはわざとかわいさを抑えました、などと言われたらプレイヤーは暴動を起こすだろう。天はヒロインの上にヒロインを造らず。
『CLANNAD』(※のネタバレ) の攻略キャラは普通に考えてヒロインでないのが何人もいるが、キャラが総体として「街」を構成しているのだから、各キャラの攻略は目的でもあり街攻略のステップでもあって、その街と結びついた親子がトゥルーヒロインとなる。つまり、ヒロインはただ人間としてはトゥルーヒロインになることができず、一部人間でなくなることでトゥルーヒロインになる。
『逆転裁判』(のネタバレ→) では誰がヒロインか、いくつかの説が考えられる。目的である依頼人がヒロインだよ説・熱い言葉と気持ちをぶつけ合っている検事がヒロインだよ説・いつも脇にいる助手がヒロインだよ説。さしあたり交換可能なのがヒロインという立場をとると依頼人が答えとなる;2話・3話で敵役として闘いながらつながりを深めていった御剣が最終4話では救うべきヒロインとして現れることで圧倒的なヒロイン力を発揮する。トゥルーヒロインが予め出ていると他のヒロインを喰ってしまう問題を、ライバル→ヒロインとシフトさせることである程度解決している。
このあとヒロインオリエンテッドなエロゲとしての『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』という話が続く。
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『ポケットモンスター ルビー・サファイア』でポケモンに新しく「とくせい」が付与され、バトルの幅が広がったという。ところで数値化されたパラメータ以外に固有の特殊能力を持つというアイディアは、『ジョジョ』以降のバトルもので広まっていったとか言っていいのかわからないけれども、人にはみんな違った個性があるという思想に結びついているように思える。みんな違うという事自体は認めてくれない人は少ないだろうけど、人より優れたところがなくて悪いところしかないんじゃないか、とか他の人に分かるほどはっきりしたものはないんじゃないか、と不安に思う気持ちに対して、秘めた個性をはっきりと可視化して、君にも自分だけの優れた能力があるんだと訴えかけてくれると感じるのです。しかしそのようなささやかな自己肯定と結びついたものを名指すことは当然恥ずかしさを伴ってしまう。そこでポケモンに戻ると、「特性」というニュートラルな言葉をひらがなにひらくことでさらにニュートラルになったこの言葉に対しては、どうも拭いがたい据わりの悪さを感じてしまうのです。つまりとくせいって何で、どうしてポケモンはとくせいを持ってるの? タイプやパラメータとはどういう関係にあるの? という問を無視してとくせいはあるのだからあるというゴリ押しをポケモンのような巨大なコンテンツにやられるともやもやが止まらなかった。逆に『リアライズ』のようにスタンド的なアレを「エゴ」とか呼んでもらえると楽だった。
みたいなことを広沢サカキ『アイドライジング!』読んでて想いました。この作品ではずばり「特性」という表現が使われるのだけれどもそれは属人的ではなく、アイドルたちが着るバトルスーツのもので、しかもそれはスポンサーになってる会社の技術アピールのため(F1みたいな?)という設定なので、個人の個性とかではなく消費社会での商品でしかない。どっちにしろ「特性」という語の違和感はやっぱりあって、ここは経済関係の用語とか使う選択肢はあると思うけど、そこであまり色を出さないほうを選んだのか? あとアクセルスマッシュをどうしてアクセルスマッシュと呼ぶのかとかも気になってしまう。
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ヒロインがたくさんいて同列の扱いでそれぞれ個別にイベントを起こしてページを割いていると、まあプロットが散漫になりやすいだろう。一方メインヒロインをしっかり決めてたらなんか一貫しているように見えやすいと考えられる。しかしサブヒロインが明確にメインヒロインの下に置かれるとかわいそうなのであまりよろしくない。
そのような理論的背景を持って『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を読むと、メインヒロインはタイトルにも表れているように絶対的に桐乃である。加えてサブヒロインとして黒猫とかがいる、という形になる。メインヒロインが桐乃ということは全体を桐乃攻略の過程と捉えることができるはずだが、桐乃はそもそも兄のことが嫌いな妹というキャラクターであり、そこから作品全体が始まっている以上、作品が続くためには桐乃と京介の関係が進展することは許されず、その危機の瞬間はできるだけ迂回され引き伸ばされていく。つまり間接的な桐乃ルートと読む権利を獲得する。
サブヒロイン筆頭である黒猫と京介の関係は特に5巻以降重みを得ていく。メインヒロインが桐乃である以上黒猫はどうあがいても副次的にしかなりえない。でも黒猫が一番好きというファンのためにはそれではまずいという矛盾がここで生じる。
「好きよ……あなたの妹が、あなたのことを好きなくらいには」
という作品を代表する名台詞がある。このセリフには少女の想いと作品世界全体が賭けられている。黒猫がこのような間接的な告白をしたのは第一には親友の桐乃を出し抜くのがいやだったからだと考えられるが、ここでは二つにわかれたひとつの世界が見事に重なり合っている。桐乃が京介を好きでないと解釈すれば黒猫も京介を好きでないことになり何も起こらず仲の良い日々が続く。しかし黒猫と桐乃がともに京介を好きだということになれば親友関係も兄弟関係も先輩後輩関係も今のままではいられない。さらにメタレベルでは作品自体が支えていた根拠をなくしクライマックスに踏み出さずにおれない。黒猫は桐乃を通してしか京介と関係できないという運命がここに現れている。それは京介の側からも同じで、京介は桐乃がいなくなったときに桐乃の代替として黒猫にかまおうとする。で、最初に書いたこととつながる。メインヒロイン支配による一貫性とサブヒロインによる多様性を両立するものとして、『俺妹』ではサブヒロインの背後にいるメインヒロインを攻略する、あるいはメインヒロインの代理としてサブヒロインを攻略するという方法がとられている。サブヒロインその2のあやせも桐乃を通して京介に関係し、桐乃を尊敬して髪型まで真似ているという設定が示すように桐乃の代理である。
『この中に1人、妹がいる!』はこのような解釈をもとにした作品と捉えることが可能である。ヒロインが全員可能的に妹であるという設定は黒猫やあやせが桐乃の代理であるという状況を戯画化したと言うこともできる。
他のヒロインの分身である桐乃はしかし自分自身は作品世界の前提であるためにデレることができないという極めて微妙な立場に置かれている。『俺妹』5巻以降はこのような状況を克服していかに桐乃エンドにたどり着くかという不可能に見える挑戦である。