俺の妹がこんなに可愛いわけがない

※ネタバレです 
伏見つかさ俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のなかで中心になるのは主人公の高坂京介と妹の桐乃の関係である。二人の関係は(おそらく現代日本の一般的な高校生と中学生の兄妹関係がそうであるように)あまりよくはない。それどころかむしろ険悪である。「所属している部活はないし、趣味も特筆するようなもんはない」「ごく平凡な男子高校生」である京介のことを「とにかく垢抜けている」つまりリア充である桐乃は見下しており、同居していながらろくに会話がない状況である。ここで考えなければいけないのはテクスト間相互性、このテクストの占める文脈である。オタク的文脈の中では妹がはかわいくておにいちゃんのことが大好きなものである。しかしそれとは逆に物語の中ではない現実の妹は決して兄に好意的ではない。少なくともそのようなイメージが一部では共有されている。物語の中と現実では妹という概念が全く異なる意味を示しているわけだ。この作品の設定はそのような断絶を利用している。つまり、現実と離れたイメージが支配する物語の中に、現実的な(それが本当に現実的であるかはわからないが)妹像を持ち込むことでギャップが生まれるのだ。タイトルの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』という中の「俺の」という言葉はここでいう「現実」の、という意味である。しかし、この作品のメタ性はここではまだはじまったばかりにすぎない。この仲の悪いというよりほとんど没交渉の兄と妹がどのように近づくのかというと、桐乃の隠していた趣味が偶然に京介に発覚することによる。それはいわゆるオタク趣味というもので、なんと桐乃はその中でも特に「妹」が好きなのである。これは相当に倒錯した状況である。このおもしろさをわかるためには読者を考えに入れなければならない。この作品の読者はその属しているコンテクストからある程度オタクであると想定される。だから作品の中では通常妹は可愛い存在であるはずなのだが、この作品ではそうではなく妹はかわいくない、しかしその妹が物語の中の可愛い妹を偏愛しているのだ。文脈に通じていなければ何のことだかわからない状況だが、このようなメタ性はある意味でオタクの中ではふつうのことである。妹である桐乃が妹ゲーを好きであるということはひとつの読みを誘発する。桐乃はゲームの主人公ではなく妹に感情移入しており、兄との恋愛を夢見ているというものだ。この考えはある意味で自然なものであり、京介もその可能性に思い至っている。しかし桐乃はその可能性をばっさりと否定する。妹がいなくとも妹キャラを好きになることは出来る、むしろ妹がいると妹キャラを好きになれないというのは京介もいっているとおりであるが、ここではその考えを桐乃に適応することが出来ていない。桐乃が兄が好きだから妹ゲーをやっているという考えはテクストの裏で燻り続ける。ひょんなことから桐乃のオタク趣味は京介に知られることになるが、桐乃にとってその趣味はあくまで秘匿するべきものとして描かれる。垢抜けた、ファッション雑誌の読者モデルをやっていて、クラスの中心的存在である桐乃とオタク趣味はイメージとして対極にある(ことにこの作品の世界観ではなっている)からだ。だから桐乃は京介とだけ趣味の話ができる。そこで桐乃は京介に自分の趣味を押しつけ、その中で仲が悪いながらも二人はふれあうようになる。ここで重要な点は京介はオタクではないという設定になっていることだ。オタクであると想定される読者はここでは主人公の京介よりもむしろ桐乃に近い立場となり、「現実」の可愛くない妹であったはずの桐乃に読者は次第に愛着を持っていく。そして二人の関係が少しずつよくなってきたところで問題が持ち上がる。父親に桐乃のオタク趣味が露見してしまうのだ。ここで確認しておくと、この作品が前提としている世界観は、オタクは迫害されていて現実の妹は可愛くなくて物語の中の妹は可愛いというものだ。よってオタク趣味が親に知られたということは桐乃にとって危機である。そこで京介が妹を救うために立ち上がり、父親を説得するのがこの作品のクライマックスである。このとき「平々凡々、目立たず騒がず穏やかに、のんびりまったり生きていく」ことが夢であるはずの京介は「妹の事情に深入りしすぎてしまっ」たことによって決定的に逸脱する。「胸を焦がす苛立ち」「混沌とした思い」を抱えながら妹のために奔走する京介は「まるで妹から借りたゲームの主人公みたい」である。ゲームからかけ離れた兄妹はゲームによって距離を縮め、ゲームの世界が侵されようとしているときにゲームの登場人物にこの上なく接近する。京介はゲームの中にいる自分を幻視する。「ゲームの高坂京介は、黄昏に染まった町で、捜し求めた妹と再会する。息を切らして夕日を見上げた主人公の前に、タイミングよく、妹が現れるのだ」。しかし、それはすぐさま「あくまでもゲームの話」であると否定される。京介と桐乃はゲームのような関係に近付くが、決して完全に一致することは無い。そして京介が父親に桐乃の趣味を認めるよう説得する場面だ。京介はオタク趣味がかならずしも悪ではないと父親に語るのだが、この場合京介本人はオタクではない。しかし主人公である京介に感情移入している読者は多かれ少なかれオタクである。あまつさえ京介は妹を守るために自分がオタクであると「嘘」をつく。これは物語の中では嘘なのだが、このときに京介は作中でもっとも読者に接近する。平凡な男子高校生、特性の無い男として定義される京介はオタクとはずれていて、そこから生まれる異化効果が面白さでもあるわけだが、ときに京介は演じることによって平凡であることをやめる。単にオタクを擁護するだけでなく、その対極に対しても理解を示しているのがこの小説の政治的な正しさである。桐乃は両面がどっちも自分であり、切り離すことは出来ないと言っている。そしてその兄である京介はあらゆる立場を代行する。言いたいことは演戯としてしか言えない。そして父親を説得することに成功し、桐乃が京介に素直な礼の言葉を口にして物語は幕を閉じる。
 この作品のツンデレ性に対してもう少し詳細に説明しておこう。桐乃は物語の最初、京介との関係が完璧に冷えきっている頃からツンデレである。つまり表面上は京介に対して冷たい態度をとっていても実は内心では京介のことが好きなのかもしれないと考えられる。テクスト内では全くそのような兆候はない。しかし、テクストの外には根拠がある。コンテクスト上で近いところにある作品に、表面上は嫌っていても内心では好意を持っているようなキャラクターが多数存在するからである。だから読者は桐乃もそうであると自然に期待する。テクスト間相互性は非常に強力であり、時にはテクストに全く描いてないことすら呼び寄せる。次に、桐乃と京介が次第に仲良くなっていくに従って、桐乃が京介に好意を持っているという読みはテクストに証拠が作られていくため容易になる。しかし、今度は登場人物自身がそのような読みを拒否する。「現実に、兄のことを好きな妹なんているわけないでしょ?」というふうに。もちろん物語の中ほど多くなくとも、現実に兄のことを好きな妹がいても何の問題もないし、ある程度はいるだろうと推測される。しかし彼らにとっての「現実」にはそのような妹は存在しない。「現実」とはほんとうのありのままの姿ではなく、物語によって作られたイメージである。物語の中では妹は兄が好きで、現実にはそのような妹が存在しない、というところまで含めて物語なのだ。その作られた物語をを物語の中の人物が信じ込むことによってこの物語の中での兄と妹の融和は不可能になる。だからこの小説のラストで桐乃が「ありがとね、兄貴」と言い、二人の気持ちが通じたように見えても京介は「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」といって自分の気持ちを否定してしまうのだ。テクストの内部で起こっていることは以上である。。しかし読者にとっては少し事情が異なる。結局のところ桐乃はツンデレであるのか? 読者はテクストを自由に解釈することができる。あるキャラクターが内心どう思っているのかは決定できない以上テクストからもコンテクストからも根拠を引き出して考えてよい。しかしこの作品ではコンテクストとテクストが複雑に絡まりあっているため、解釈は簡単ではない。そもそも桐乃は違ったコンテクストから来ているキャラクターであるうえ、作中人物自身が自分の属するコンテクストを参照して振る舞っている。よって桐乃の心の中を推測するのは困難を極める。しかし、それこそが桐乃の魅力なのだ。愛する人の心を探ろうとする探偵的な読者にとって桐乃は謎の存在であり続け、それゆえに心をとらえて離さない。しかも謎であるのはテクストの内部だけではなく、複雑なコンテクストとその操作のためなのだ。

二巻発掘したら続き書きます。