古野まほろ『天帝のみぎわなる鳳翔』が二月にやっと出るそうなので思いつくままに褒めます。『天帝の愛でたまう孤島』が出て一年以上たつけどいまだにあれほどの小説に出会えてないのでもうずっとまほろのことを考えている。『天帝のはしたなき果実』はもう十回は読んだと思うがいまでもその輝きは褪せていない。三部作では『果実』が一番で『孤島』が三番、要するに後に行くほど文章が悪くなっていってると思うが、それにはテクスト内の理由(作品のテーマ)とテクスト外の理由(作者の執筆時間)があって、それはどっちも解消されたので『鳳翔』は『果実』以上の傑作になると思われる。こんだけ褒めてもしつまらなかったどうしようとも思うが、その恐れは未来に可能性があるから生じるわけで、それが生きているってことだ。村上春樹の小説の主人公がもう死んだ作家の作品しか読まないといっていたが、そういう意味では生きている作家の作品しか読むに値しない。もちろん死んだ作家の作品でも読むほうによって変化する可能性はあるのだが。
最近は修野まり=Mary Corderia Matilda Hordernessと結婚するにはどうすればよいかとかよく考えている。なかなか相手にしてもらう状況が想像できないが殺される図しか想像できないだれかよりはましか。修野さんはイギリス貴族だからつりあう相手になるにはクイーンズイングリッシュを学んでイギリスに留学して女王に勲章をもらうぐらいは必要だと思う。しかしそれでも峰葉さん以外の人間にはろくに感情を動かされない修野さんの心を動かすのは難しい。そもそも修野さんの魅力はヒトごときが軽々に近づくことが出来ない気高さにあるからだ。『氷の女神』と呼ばれるほど感情を表に出さない彼女はヒトたちの中で生きているが、その中に混ざることは決して出来ない。しかし彼女はそれでも世を儚んだりせずに、時折トランペットに慰められて生き続けている。そして彼女に課せられた役割を果たしているのだ。彼女の長い真直ぐな黒髪、ぱっつん前髪、白い肌、細長い手足といった外見の要素ももちろん美しいのだが彼女の内面はそれよりはるかにすばらしい。飛び級で大学を出た知能や貴族の証たる教養、ほぼネイティブに劣らないがときどき変な日本語、それに人外でありながら人間を思いやるやさしい心、ときには切り捨てる非情、ああ、どうして彼女の言葉はあんなにもヒトに突き刺さるのだろう。戦艦大和の主砲や村正にもたとえられるその言葉は彼女が僕とは違う存在であるということを常に痛感させる。彼女の世界に近付きたい。彼女の脇で、少しでも塵界の退屈さを忘れさせる慰み者になりたい。南瓜をたくさん食べさせたい。異界の砂と消えても後悔はするまい。