マルクス主義エロゲ批評のために(はてなアンテナのある世界では投げやりな更新は困難であるがあえてそこに挑戦してみる)

マルクスによれば物には使用価値と交換価値がある。ギャルゲーにおいてヒロインは攻略可能性=使用価値をもつが、使用価値が発揮されるときには常に他のヒロインとの比較は不可能となる。よって選択の際には使用価値は潜在的なものとして把握されるほかない。可能性の計測が可能であるというこの幻想(物人崇拝)によってヒロインは貨幣となり流通する。しかし未来に投機された決済が不可能になったとき貨幣はその幻想を剥ぎ取られる、柄谷行人は恐慌をそのような場として見出したが、キャラクターの場合たとえば攻略不可能なサブヒロインという存在に超越論性を見ることができる。サブヒロインが攻略不可能なことに怒るという事態は転倒している。そもそも攻略不可能なことがサブヒロインの定義なのだから。しかし我々は攻略可能性を秘めたヒロインという尺度でサブヒロインを測ってしまう。これをたんなる錯覚として退けることはできない。サブヒロインの魅力の一端は紛れもなくその幻想に依拠しているからだ。そこで我々はサブヒロインが攻略可能なファンディスクを要求し、可能性が正しく決済されることを確認して幻想を回復しようとする(=取り付け騒ぎ)。しかしそれは一時の気休めに過ぎず同様の問題が起こる可能性は残り続ける。そもそもの原因は我々の性の条件であるヒロインという概念にあるのだから。

こういうことをいうと基本的に使用価値を保証しているギャルゲーは産業資本主義的で、ガンガン流通させて信用創造(この言葉は素晴らしい)する金融資本主義的な扱いの方がラディカルだということになっちゃうよなー…