Angel Beats! についてのメモ

twitterで気がついたらこのアニメの話ばかり書いてるので隔離することにする。メモなのでとりとめもなく。
1話「Departure」
僕たちがこのアニメを見るときに感じる「やりきれなさ」はなんだろうか? それは設定だの展開だのよりもまず、アニメが「動いていること」そのものにあるのだろう。Keyのゲームは静止画の集まりとして表されていた。このアニメのキャラクターも最初に見たのはNa-Gaの絵でだった。ゆりっぺや天使たちが動き出すという事態に僕たちはまず耐えられない。そんな気持ちを汲んでくれてるのだろうか。キャラはそんなに節操無く動くわけではない。はじめ、ゆりっぺは天使を狙撃するために止まっている。天使のところに行こうとする音無をゆりっぺは静止しようとする。天使のところに行けば、病院へ行こうとする音無を今度は天使が静止する。そして次なる移動、校庭から保健室への移動は音無が死んでいる間に行われる。保健室から出ようとする音無はまたも邪魔される。今度は野田に。彼にやられた傷が治った後、やっと音無は一人で自由に移動できるのだが、この移動の中身の無さときたらどうだろう。信用できる人間をさがすための単なる移動であり、人がいない場所は背景に過ぎない。空間に内実はないのだ。『けいおん!!』がモデリングの欲望を喚起するのに対してhttp://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-5353.html このアニメはマッピングだとか。http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-5003.html エロゲ的? まあそうとも言える。そしてたどり着く校長室だが、入ろうとするとまた引っかかる。どうやら(音無にとって?)移動は容易なことではないようなのだ。で、校長室である。ここで僕らを戸惑わせるのはキャラクターの「多さ」だ。多ければ多いほど拡散してひとりひとりの比重は軽くなる。集団のSSSに一人で対抗する天使の存在感が巨大であるように。オペレーション・トルネードについて。ガルデモのライブによってライブシーンの作画競争に終止符を打つと宣言する時に念頭に置かれるのが『涼宮ハルヒの憂鬱』の1エピソード「ライブアライブ」や『けいおん!』における放課後ティータイムの演奏シーンだということは断言してよいだろう。ここは作画枚数一万枚のうちの多くが注ぎ込まれたと考えられる徹底的に「動」のシーンであり、加えて歌や音楽が鳴り響くライブとは極めてアニメの自己主張の強い、あられもない場面だと言える。美少女ゲームから遠く離れたこの場面の裏で進行しているのが天使とSSSのバトルであり、これもまた動きの、そして多数のあられもなさを感じさせずにはいられないシーンである。この戦いはただ単に人数において一対多であるのではなく、得物においてもそうである。一本のハンドソニックとあまりにも対照的に戦線は銃弾を多数飛ばし、その刹那の軌道を目に焼き付ける。作戦の最終段階において風が一般生徒ーNPCたちの食券を巻き上げるわけだが、それは宙にあるとき銃弾のように光っている。食券はもともとNPCの、無名の多数のものであり、それが画面を舞い落ちていくという事態は不特定多数が動きによって画面を侵食するというこのフィルムの流れそのものであり、それが僕らを不安にさせるのだろう。

俺は登場人物の中では天使ちゃんに一番近いと思ってたけどゆりっぺも俺のように思えてきたし音無も俺だ。

ゆりをゆりっぺと呼ぶな問題。

「美しくないものは存在しない」というのが美少女ゲームの世界観であり、つまりはなぜエロゲーの背景はあんなに美しいのか問題。ライトノベルがその表現の不十分さを超えて美少女ゲームの代替となりうるのは表現「しない」機能を存分に果たしているからなのだった。つまり無限に美しいはずの世界で美しくないものを見せられると大変なえる。引いたカットなんてもう存在が悪。あとはまあ、動くものってぜんぶ醜くね、みたいな。そういう意味でも天使ちゃんは強い。