パンチラ試論

前回の内容的には続きでないけど意識的には連続です。
Keyのエロゲ史における画期がパンチラの排除にあったことはよく知られている。だからこそ僕たちは『リトルバスターズ!』が発表されたとき小鞠のパンツに涙した。一つの物語が終わった。それに比べれば『リトルバスターズ! エクスタシー』においてエロが追加されたことなど全く問題にならない。遠近法的倒錯と言いたければ言えばよい。それはあらかじめ知っていたことだった。
僕たちは宮内レミィのパンツを繰り返し目撃する。たんにシナリオ上で複数回のイベントが用意されているだけでなく、CGコンプの必要性から複数回のプレイにおいてみることになる。そのたびに僕たちの目は彼女のパンツに引きつけられる。そのたびに僕たちは目がパンツをみるためにあることを知る。クリック、クリック。流れるテキストと共に上下運動を繰り返し、その背後にキャラを透かし見る僕たちの目は極めて不安定だけれどもここで定義されて安定する。もっと自由な? インタラクティブな? ゲームなら目と手の共同作業で定位できるのだろうけど。
パンチラは平穏な日常の中に突如入り込み特権的な瞬間を形成する。このような見方は一面では正しいが日常の側からの限られた見解に過ぎない。正確には日常はパンチラという非日常を排除することで成立する。切り離せない。平凡な日常生活はパンチラを中心におくことで描かれるべき対象になる。いつパンチラによってこの世界が破られるかわからないという潜在的な怯えが我々に日常の大切さを感じさせ、愛おしむべきものとして定位する。そしていつか、予想できないときにパンチラは我々の元にやってきて、すぐに去っていく。だから決定的な破壊は起こらず、日常と非日常は対立しながらも共存する。これが世界のシステムだ。そうして境界線を引く役割を持つスカートが揺れるとき我々は現実の危うさに戦慄する。
このような観点からみたときKeyの作品にパンチラが存在しないことがどれだけ恐ろしいことか理解される。そこには日常と非日常の区別が存在しない。中心を欠いた混沌としての日常の中に放り込まれたとき我々は一種の無時間性にとらわれ、変化の感じられなさに苛まれる。はたしてKeyのキャラはパンツをはいているのだろうか? ここまでの議論から言うと日常と非日常の境界を作るパンツははいていないことになる。しかし我々はHシーンにおいて彼女たちがパンツをはいていることを知っている。この矛盾と解決するために我々はパンツを二種類に分けなければいけない。ものは観測者にとっての役割で規定される。物語の後半におかれるHシーンは瞬間的なパンチラよりも大規模な引き伸ばされた非日常を形作る。物語の山場となるそれを乗り越えて獲得された日常はさらに貴重なものとなる。ここでの日常→非日常→日常という図式を否定することで日常のあらゆる時に潜在する非日常というかたちが出てくるともいえる。
ここで「ぱんつはいてない」という言葉を取り上げよう。この言葉で示される状態はパンチラによる世界の安定が不可能であるという意味でKeyと似ており、僕たちはここでKeyのキャラはパンツをはいてないがぱんつをはいていると整理することができる。あるキャラがはいてないことはどのように証明されるか。どれだけ肌が見えている範囲が拡大されようがそれははいてないという証明にはならない。決定的な証明のためには性器そのものを描くしかないのだが、それは世界の決定的な変容を招いてしまうため予め禁じられている。ここには言語と図像、肯定と否定の性質が表れているがここではスルーする。逆にはいていることを証明するのは簡単だ。パンツを描けばいいのだから。しかしそれを不可能にするのがはいてないというありかただ。Keyにあってはまだいつかパンチラによってこの世界に秩序がもたらされるという期待を消え入りそうであっても抱くことができた。しかしはいてない世界ではそのような否定神学的な希望すら存在を許されない。はいていることもはいてないことも証明される可能性そのものを摘まれている。だから我々は世界に肉薄しながらも永遠に決定を奪われて宙づりにされる。それは神の存在証明に似ている。ではKeyでそうだったようにHシーンによって線形な物語世界に個々の時間を従属させることによって安定をもたらすのはどうだろうか。しかしHシーンで服を脱ぐときにはいていなかったら全く違うニュアンスを帯びてしまうのだからこの道も塞がれているわけだ。ぱんつはいてないとはセックスできないという意味でもある。
我々はいまぱんつはいてない時代に生きている。パンチラによって非日常と日常が分けられていないしセックスによる放蕩が組織化することもない混沌の時間。しかしやたらと限界には近づいている。いつか爆発するか、それは分からない。

追記:ブクマコメで「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」はどうなのかという極めて正しい指摘を頂きました。そうですね。それは「はいてない」の逆というか、変化の可能性が奪われているということは共通で、例外状態の常態化とか言えばいいのではないでしょうか。