ゼロ年代美少女ゲーム論やりたいなあ

僕は「リトルバスターズ!」を作品として評価していない。しかしこの作品はやはり偉大であるといわざるを得ない。この作品はそれまでのKeyの作品と多くの面で異なっている。たとえば主人公の直枝理樹(この名前と久弥直樹の関連性というのは無理があるとしても捨てがたい)に声がついている。KeyはもともとCVに消極的なブランドではあったが、「主人公以外フルボイス」などという奇妙な事態がまかり通る世の中にあって主人公に声がついていることの意味は小さくない。しかし理樹の台詞すべてに声がついているわけではなく、主に理樹以外が視点人物となっているときに彼の顔グラとともに声がつく。彼の顔もきわめて重要なポイントである。主人公はプレイヤーが同一化するべき空虚な器だから無色透明であり顔は描かれないというのが「常識」であるが、理樹ははっきりと顔を持ったキャラとして描かれるし、その顔はショタ的である。となれば彼は当然のごとく作中で女装させられる。
つまり理樹はゼロ年代後半の美少女ゲームの特徴とされている「主人公の自立」を典型的に反映したキャラであるといえる。
もうひとつ、共同体志向について。「リトバス」における理樹の役目は「リトルバスターズ」を再結成することにある。「リトルバスターズ」は元々は理樹や棗京介ら、幼なじみ5人を指すが、現在におけるそれは野球チームの名称であり、ヒロインたちを含む。そのために理樹がやることは各ヒロインの攻略である。ここで「つなぐこと」と「攻略すること」が結びついているのを確認しよう。「るいは智を呼ぶ」(暁WORKS)では個性が強くそのままではまとまらないヒロインたちを主人公がまとめる役を(物語のレベルで)背負っている。「俺たちに翼はない」(Navel)では主人公は属していたコミュニティ同士を繋ぐことになる。葉鍵以降の世界でもっとも人気のある(TYPE-MOONという例外を除いて)エロゲーブランドであるオーガストの作品ではヒロイン同士の関係が密であり、「月は東に日は西に 〜Operation Sanctuary〜」ではコンプリート後にタイトル画面の背景がメインヒロインの天ヶ崎美琴からヒロインたちのお茶会に変化する。これらの作品では主人公の役目は「ヒロインを攻略することによってヒロインたちを繋ぐこと」であると言ってよい。だから「リトバスEX」で理樹がヒロイン全員と性的関係を結ぶことはそれ自体アモラルなことに思えてもそれでヒロインたちの間に争いが起こるようなことはない。同様の問題は「CROSS†CHANNEL」(Flying Shine)などにも見いだすことができる。この作品では社会に適応できないヒロインたちを主人公の黒須太一が攻略することでヒロインは社会(世界)復帰を果たすが、主人公がそのための機能であるという自覚がみられる。主人公の機能としてもう一つ、ヒロイン同士を繋ぐ以前にヒロインを特権化することがある。ルートがあるヒロインとそうでないサブキャラの間には大きな差がある。ヒロインは彼女固有の世界(ルート)を持つことによって特権的な存在になる。だから人気のあるサブキャラはファンディスクで固有のルートが待望される。『True Love Story Summer Days, and yet...』(エンターブレイン)などで隠しヒロインがはじめ背景に登場していることを思い浮かべよう。文字通り背景でしかなかったキャラがヒロインとなることで人間に(キャラに?)なる。ここでかつてヒロインになることに失敗して「背景」と罵られた高井さやかという不幸な少女のことを思い出そう。セカイ系の困難をここに見ることができる。マンガやアニメや小説は基本的に一本道であり攻略=非背景化できるのが一人しかいない。よって「キミとボク」以外は存在しない。「イリヤの空、UFOの夏」のサブヒロインが世界からフェードアウトしていく様子を思い出してほしい。ルート=特権化という思想は「CLANNAD」にも見いだすことができる。ヒロイン以外の多くの人物にルートを用意することで攻略された=世界に登記された人間だけの共同体を成立させようという考えだ。
さて、ここまでで確認されたのは、主人公の役割がヒロインを特権化し、共同体を成立させることだということだった。メタギャルゲー小説「生徒会の一存」では主人公の杉崎鍵はヒロインたちと恋愛関係を結びつつもその中の一人と排他的な関係にならないことで生徒会という共同体を成立させている。そこでは主人公は自らの欲望から疎外されている。しばしば美少女ゲームはヒロインを所有しようとするプレイヤーの欲望の反映であるというような論旨で倫理的に批判されるが、好むと好まざるに関わらずそのような批判はすでに半ば失効していると言わざるを得ない。現在ではもはや萌えるのに「所有」などという人間的な活動は必要なくなっている。だから「所有」しようとする活動は反時代的な、キャラに「人間性」を取り戻すこととみることができる。ここで美少女ゲーム=探偵小説論というかつてあってもはや遠い論を少し違った形で導入しよう。
ここで笠井の大量生理論が浮上する。佐藤心のギャルゲー=探偵小説理論はヒロインのトラウマを説かれるべき謎に見立てるというものだった。(「オートマティズムが機能する」)探偵は主人公=プレイヤーで、謎はトラウマ。では犯人と被害者はどこだろう? 犯人はプレイヤー、被害者はヒロインとなるだろう。(「探偵こそ最悪の強姦者」「天帝のはしたなき果実」)ここには探偵と犯人の間に微妙な距離がある。「戯言」シリーズや「天帝シリーズ」では探偵と犯人がいかに接近しても探偵=犯人にはならない。ここで笠井潔の探偵小説論を導入しよう。彼は探偵小説を本質的に戦後文学であると位置づける。「大戦が生産した無意味な屍体の山に対して、それを新たに意味づけ直さなければならないという衝動」によって探偵小説は生まれる。

「ひとつの屍体に、ひとつの克明な論理。それは無意味な屍体の山から、名前のある、固有の、尊厳ある死を奪い返そうとする倒錯的な情熱の産物ではなかったろうか」(笠井潔『探偵小説論I 氾濫の形式』)

ここまでの議論を適用すれば、これを改変して、美少女ゲームのルートは「無意味なキャラの山から名前のある、固有の、尊厳ある生を奪い返そうとする倒錯的な情熱の産物」であるといえる。

「犯人は被害者を葬ろうとして、緻密な犯行計画を練る。そのようにして殺害される人間は、戦場で偶然のように殺された無数の死者よりも、はるかに「人間的」に扱われているのではないか」(同上)

ヒロインに固有のトラウマを与え、長い時間をかけて攻略することは大量に生まれては消えていくキャラを「人間的」に扱うことではないか。
(ここまでの文章がレイプ・ファンタジーの正当化に読めることは否定しない。どうせレイプ・ファンタジストであれる時は限られているのだから。)
しかし探偵小説で死んだ人物は生き返らない。それに対してギャルゲーで攻略されたヒロインは次のループで再び登場する。この本質的な違いが全く別の事態を招く。
続く