偽史

かつて、「純愛対鬼畜」という今では痕跡すら残らないひとつの戦いがあった。僕はそれを見ていた。つまりはゲームジャンルの好みを巡る争いであり、もちろんそれだけではなかった。僕たちが唯一持ち得たイデオロギー闘争だった。大きな物語の失効、不可能性の時代、その意味するところは戦う根拠の喪失だ。僕らは闘争から疎外されている。選挙でどこに投票しようが何もかわりはないしネットでのウヨサヨ論議など自傷自慰でしかない。イデオロギーはここでの想いが彼方へと届くことを前提とする。純愛や鬼畜とは単なるジャンルではなく世界観だった。ギャルゲーとは世界観を表象する武器だった。
そこにKeyが舞い降りた。
人はそれに惹きつけられ、あるいは拒絶した。それは結局同じことであり、人間を、真を善を美を越えた崇高への戸惑いだった。人には理解出来ないそれに何らかの態度をとらなくてはいけないとき人の判断はほとんど偶然でしかない。しかし僕はKeyの側に、純愛に、何もわからないままついて何もしないうちに勝負は決着した。僕は勝者の側に立っていた。
今になればその戦いが何を意味していたのかわかる。それは人間の定義論争だった。鬼畜ゲーの訴えているのは、人間に人格は確かに存在し、それは多大な労力を払って踏みにじるに値するもの、すべてを賭けて手に入れるべき尊いものだということだった。それに対してKeyに魅せられた人々がやったことは人間を自動律と三題噺に還元することだった。後者が勝利したので人間はいなくなった。それ自体は良いことでも悪いことでもない。しかし僕はあのとき確かに世界とつながっていて、決断した。その責任はとらなければならない。