一応萌え4コマの話か

http://twitter.com/gottos/status/4835500903 http://twitter.com/gottos/status/4835599700
あたりを読んで触発されたんですが、(勝手に持ち出してごめんなさいごっとさん)
僕が http://d.hatena.ne.jp/ilidim/20090331/1238429916 とか http://d.hatena.ne.jp/ilidim/20090519/1242662335
のあたりで「ゆゆ式言語ゲーム」だの「ゆゆ式は俺達(流石だよなゆず者?)」とか言いたがっているのはゆゆ式を主語として扱うことで全体性を強化しようとしている、つまりsayukさんの同人誌やゆゆ式学会(なんで週一で学会があるんだよ馬鹿が)つまりは「「ぼく」ら」みたいに作品を極限まで分解しようという立場へのカウンター、アンチ月読絵空の企みなのだということはこのブログをお読みになっている奇特な皆々様からすれば常識とは思いますが、もしかしてはっきりと言語化してない人はいるかもなあと思ったのでした。技術を語るときには思想をカッコ入れて、それはその思想を解さない人を置いてけぼりにすることになるのでエリーティズムになっちまうわけで、僕はエリーティズム大きらいなので(しかしエリ−ティズムってあらゆる人に嫌われても存続するものじゃないの)まあ思想の話をしたい。ないとしてもね。しかし4コマ漫画のコマ一つ一つの話をするってかなり最悪な消費の仕方っぽいのでしてる人はそれなりに誇っていいんじゃないですかね。物語の中からキャラクターを切り出して消費するよりもある意味でひどくて、そこまでバラバラに切り刻んじゃうと当然人のかたちは見えなくなっちゃう。でもすごい形式的な切り出し方であるわけで、ある意味で自然にも見えちゃうけどやっぱり質的変容は免れない。一コマ一コマになっちゃうともうキャラクターすら成立しないんじゃないの、あるいはすべてのコマが可能世界(1ページに16の世界、それが延々と!)とでもいわざるをえない。でもそういう読みをゆゆ式にしかしないのならやっぱり作家性は保たれてるよね、とか本質的じゃなさそうなことをいいたくなる。いやその種の世界観はたしかに共有可能だけれどもそれがやはりヘーゲル主義の勝利なのだー
なんかこういうことをし始めたら末期的ですね!