ライトノベルライトノベルを手がかりに、すこし考えてみました

このエントリはちょっと調子を変えて書きます。一応毎回スタイルは考えているつもりなんですが。
なんか最近感じたこととして、僕が一部の人たちとコンテンツについてしている話は最悪なんじゃないかと。悪いというのはどんづまりに向かっていて、未来がないという意味です。たとえばライトノベルライトノベルについて。ライトノベルライトノベルとは、物語の中でライトノベル作家が登場してライトノベルを書くことが話しにかかわるようなライトノベルのことです。こういう作品は、必然的に大冒険とか、不思議とか、入れにくくなります。ふつうに考えて、あまり楽しくないです。それなのに、なんでそういう作品を面白いと感じるかというと、もう、ふつうの作品を読めないからじゃないかと。これはまあ僕の知人というか、実はそんな人はいなくて、僕の妄想かもしれないですが、あくまで限定的な話で。ふつうの作品を構成する要素を次々にメタ的視点から見下して、使えなくしていくと、後に残るのはライトノベルそのものしかない。ライトノベルの定義を考えて、あれもこれも本質ではないといって、想像力とか、社会とか、身体性とか、実存とか、全部消していった結果、残ったのはライトノベルそのもので、ライトノベルは作家と編集者(とイラストレーター)が作って、読者が読むものだということ。それを書いたらライトノベルライトノベルになるのではないかと。ここで作者が登場するとしてもそれはあくまでライトノベルが生産されるに当たってどうやら必要なポジションであるらしいもので、つまり完全にキャラクターとして作られます。作者がキャラクター化されるのではなくキャラクターとしての作者に作者が引っ張られるのです。あとがきにおける作者のキャラクター化もそういうことです。自分を見失ったライトノベルが自己規定しようとしているのだともいえます。
ここまで書いたことに僕はある種の正しさを感じます。しかしそうでない人が多いでしょう。これは単なる思い付きです。確たる理論があるわけでもないし、データを正確に取ったわけでもない。このようなことは誰にとっても真実ではないでしょう。作者や編集者がこのように考えて作るとは思えないし、読者もこんなことを考えて読むわけではない。しかし、もしこれが正しいとしたら、いったいいかなる意味で正しいのか。そういうことこそ僕の考えたいことです。それは批評の意味を問うことです。
かつて主観批評あるいは印象批評の弊害という事が色々と論じられた事があった。(中略)次の事実は大変明瞭だ。いわゆる印象批評の御手本、例えばボオドレエルの文芸批評を前にして、舟が波に掬われるように、繊鋭な解析と溌剌たる感受性の運動に、私が浚われてしまうという事である。(「様々なる意匠」)
まさか自分の文章をボードレールと比べることなどできるはずもありませんが、批評を読みたいと思う自分がいることは認めなくてはいけません。そしてそれにとどまらず、一般に批評の意味は考えられなければならない。批評的言説がいかなるレベルで正しくて、それはどのように翻訳されうるか。そして知のありかたを考えるのが僕の望みです。