論理的であること

数学や論理学はどんなにその体系が堅牢に見えようとも論理的ではない。論理的とは始まりが終わりと等しいことだ。その世界ではあらゆる人がすべてを理解する。本格探偵小説は論理的であることをその至上命題とし、正答率100%を理想とする。決して簡単なのではない。簡単も難しいも存在しない、読むことと真相に達することが一つのことであるだけだ。しかし小説は多様性を以て善しとされるジャンルである。ここで本格探偵小説はその宿命的な矛盾と邂逅する。小説は無限の多様性を持つべきである。しかし、仮にある小説が純粋な無限ならそれを読むことは何もしないのと同じだろう。ここには永劫回帰の問題がある。回帰は選別されるか? 選別されるのならそれは永劫ではないのではないか? この問題に一口で答えるのは難しい。しかし我々は回帰する永遠と自身の持つ傾向性の中で生きている。ゆえに本格探偵小説を目指すものもまた意味の無限と一つの答えの両立を目指すだけだ。理論のことは究極に至ってから考えればいい。いや、理論に至る道は実践の中にしかない。
古野まほろはすべての言葉を再定義する。無限の意味の中から望むものを読者に受け取らせるために。しかし言葉を上書きすることはできない。書き換えたことは一つの痕跡となり、その時間的な総和が言葉である。言葉が本質的に通時的なのはそういう意味だ。単独と無限が両立する言葉という逆説。
純粋論理を体現する古野まほろにとって犯人が誰かという疑問は存在しない。手がかりが足りないなら決定不可能だし十分なら答えは既に与えられている。ゆえに彼の親しい人間が犯人だとしても彼は事実認識のレベルで揺らぐことはあり得ない。「本当にあの人が犯人なのか?」ではなく、「あの人が犯人だがどうするべきか?」という問題のみがある。
実のところ我々が純粋論理を完璧に体得することはありえない。処理の過程が存在するからだ。それは時間がかかるというだけでなく、ノイズの混入により答えすらずらされる。つまり時間性に投げかけられた存在に推理は不可能ということになる。これは後期クイーン問題とかではない。ここで問題になっているのは外部性ではなく、思考を可能にする条件が同時に限界を設定しているということだ。もちろん原理的には解決法は存在しないのだが、古野まほろとは違う時間経過を含む推理についてもう少し考えてみてもいいだろう。時間的推理は本質的に複数的である。誤った推理をそのあとに新たな推理によって修正することが許される。一度した推理が誤っていることに気付くことは本来的に不可能である。論理には必然性が必要なのだから。しかしそれを可能にするような推理は内的一貫性は持っていても現実とのつながりにおいて弱い。その推理を否定するような新たな手がかりの登場によって別の推理が要請される。この過程は実験的であるとも言えるし、外部的でもあり、また、弁証法的でもある。つまり探偵小説を生み出した近代精神が表出している。