条件付運命論

前回のエントリと関連する話。実に誰得ですがこういうことを考えるのは嫌いじゃないのです。

理想的コミュニケーション空間というのは皆仲がいいのですね。
けいおん!」みたいな。しかしアニメ「けいおん!」の人気カプとか見ると世の中堕ちた運命論者ばかりのような気がしてきて絶望しますね。

恋愛は運命の人とするものです。しかし運命の人が誰かは人間は自分の運命を知ることができないのでわかりません。しかしだからといって恋愛をあきらめられないときには運命を計量する必要があります。いま生きている人の立場から考えて、既に出会っているある人との出会いが運命である確率を推測します。前提として運命の人は必ず存在して、生きている間に出会うとします。だから死ぬ間際になれば誰が運命の人だったかはわかります。しかしそうでないときには、運命という本来手の届かないレベルに確率を用いて参入します。平均寿命が80歳だとして、自分が40歳ならすでに運命の人に出会っている確率は単純計算で二分の一です。20歳なら四分の一、60歳なら四分の三となります。ここまでの考えですでに問題がいくつもあります。まず正確には平均寿命ではなく平均余命を使うべきですね。それに出会いのチャンスが死ぬまで平等であるという保証はありません。老後よりも若いときの方が運命の人にである確率は高いように思えます。そもそも運命の人が必ず存在するという前提がおかしいのではないかという疑問もあります。二分の一の確率で運命の人と出会っているとわかったところでそこで今までであった人にアプローチしようと考えるのが正しいのでしょうか。いまだ運命の人とは出会ってない確率は二分の一もあるのです。加えて、この考えだとたくさんの人に出会っているほどその一人一人が運命の人である確率は薄れて、逆に少しの人としか出会っていない人はその中の人がそうである確率を上げることができます。極端な話、一人の人としかであわなければ確実にその人が運命の人であることになります。確率の変化もあります。年を取って多くの人に出会えば昔から知っていた人が運命の人である確率は減少していきます。

このように考えていくと、出会った人全員が運命の人である確率が等しいという考えがそもそもおかしいということがわかってきます。我々は人の運命についてもっといろんな情報を持っているのでそれを活用します。運命は完全ランダムではないということです。さきほど、死ぬときには運命の人が誰だかわかると書きました。ならば死ぬとき、つまり現在から死ぬまでの自分を予測することで間接的に運命の人に近づけます。そのための助けとなるのは過去の自分と、他人の運命です。自分に近い他人の過去をみることで自分の未来についての予測がたてられます。
人はこのようにして通常知り得ない自分の運命の相手を知ろうとし、その際に運命とは離れたものがかかわってきます。それを克服するためには別の形で運命にアプローチしなければいけません。