『ヴァンパイアノイズム』についてのメモ。

ちゃんと書こうとして失敗したので、断片的。

十文字青はあとがきでこの小説を「十代、二十代の方々に届けたくて書いた物語」だと語っている。現代もので、ファンタジー要素がなく、高校生を主人公にして、思春期の悩みをテーマとしたこの小説は作者の代表作である異世界ファンタジー薔薇のマリア』よりはたしかにライトノベルの読者に近いかもしれない。しかし主人公の片桐ソーヤは『ぷりるん。―特殊相対性幸福論序説』のユラキや『ANGEL+DIVE』の夏彦に少し似て、無気力で無感動な、共感しにくい人物だ。『薔薇のマリア』のマリアローズのほうが性格的にははるかに感情移入しやすいだろう。どこかとっつきにくい、浮世離れした印象を抱かせる一人称によって語られる物語はその実まっとうすぎるボーイミーツガールだ。それまで意識していなかったクラスメイトと教室を出るときにぶつかって、その拍子で眼鏡が取れたところを見てこんな顔をしていたのか、と意識する。なんてベタな出会いだろう。あるいは偶然本屋で似たような本を探す。何を考えているか、少しだけ知ってもっと知りたくなる。偶然と必然が重なって、逃れようもなく惹き付けられる、そうして近付いたふたりは吸血鬼になるために実験をすることになる。

BMGであればなんでも正当化される、というようなきもする。それはおかしいといえばおかしいけど、BMGの圧倒的な引力は認めなければならない。

吸血行為というのは体液の交換であって当然性的なニュアンスを帯びる。行為の後に女の入れたコーヒーを飲むというところも。いやな言い方をするとぼっちの男女がセックスして自信がつきました、みたいな話ではある。問題が露骨に性的な行為と結び付くのは『ぷりるん。』と共通である。吸血行為は一人では意味がない。プラスマイナスゼロになるからだ。だから二人でやる。それがコミュニケーションだ。

薔薇のマリア』みたいなファンタジーなら世界を描くことが重要になる。その世界を読者は知らないわけだから。しかし本作のような現実世界を舞台にしてファンタジー要素がない作品では事情が異なる。そこにあるのはあらかじめ知っていることの組み合わせでしかない。ならばその眼がやることは内省、そして分析だ。世界のわからなさの原因をどこに求めるか、外界ではなく自分に求めている。

挿絵は『ぷりるん。』と同じま@やだけど、前作よりかなりいい印象。

固有名詞の問題。この作品にはGReeeeNとかasian kung-fu generationとかドビュッシーとかの固有名詞が登場する。固有名詞とは明示的・能動的にテクスト外とリンクするための道具であるが、あまり馴染んでいない。もちろんGReeeeNasian kung-fu generationドビュッシーでは前二者はいまのコンテクストに属するが後者は過去のもの(しかし「クラシック」とは無時間的ということでもある)なので分けて考えなければいけない。クラシックと切れているということは当たり前で、前者と隔絶されていることこそ問題だ。オタク的な引用は一般に原テクストとの近さを示すものだが、この作品の主人公であるソーヤはテクストに接続されることで充足するようなタイプではない。この馴染まなさはソーヤと社会とのディスコミュニケーションを反映しているというべきだろう。ならばソーヤが肉体的な行為によってコミュニケーションを図ろうとするのも当然といえる。

電研部部長の小野塚那智は『ぷりるん。』からの続投。今度はクラスメイトとして。那智はほんとうにすてき。超然たる彼女にとって他人の性質は全部大差ないんでしょう。だから彼女との関係だけが残る。『ぷりるん。』と本作は同じ「第九高校シリーズ」らしいので、いつか那智メインの話を書いてほしいですね。