古野まほろと読者とネタ

『天帝のはしたなき果実』の中にはさまざまなネタが含まれています。たとえばミステリ、サブカルチャー吹奏楽、オペラ、外国語など。読者は吹奏楽をやった経験があれば吹奏楽の描写に記憶を掘り起こされ、Zガンダムが好きであればハマーンさまがどうこういう部分にニヤリとするといえるでしょう。ではこのようなネタを小説中に入れることは知らない読者を排除しているのでしょうか? そうではありません。まず我々にはインターネットという武器があります。知らない言葉が出てきたらググることでその元ネタがなんなのか知り、ひとつ物知りになることが出来ます。それに、作中に登場するネタは多岐にわたっておりそのすべてを網羅することは非常に難しいでしょう。しかしネタがひとつも解らないということもまた考えにくいでしょう。つまり読者はあるネタに対しては共感し、あるネタに対しては疎外感を覚えるという状態になります。だから読者は世界に入り込みつつ、自分の知らない分野にふれて知識を広げることができます。さらに、巻末の参考文献の存在があります。そこにあげられているのは多くが入門書や解説書のようなものです。これを素直に受け取ると作者は作中のネタを入門書を読んで身につけたような付け焼刃の知識で書いたということになります。ということは、そのような薄っぺらい解説の引き写しに共感してしまい、ネタばらしされた読者は馬鹿にされたようなものです。作中で長々とドストエフスキーの引用をするキャラに対して別のキャラが、それは暗記しているのか、と問いかけて、カンペを読んでいるだけだという答えが返ってくる場面がありますが、参考文献一覧は作中のネタに対しての読者の疑問、それは暗記しているのかという問に作者がカンペだと答えているようなものです。そもそも知っているネタが出てくることで共感するというのは、村上春樹なんかが政治的信条とかよりも趣味のほうが大事だからそっちを共有することで感情移入するよ、という考えで音楽とかを細かく書いたというようなことの延長線上にあるわけでそういう細分化された物語の一部に局所的に着目するというのはある種の否認と一体であって、大事な人が死んだけど遊んだり音楽したりするよ、という主人公まほろの精神の安定を保つためのポーズと重なっています。しかしネタがコピペに過ぎないとしたら本当の中身は何なのかという疑問は残って、そこで浮かび上がる解釈というのは、明らかに強い影響があるけれども参考文献一覧に記載されていない『虚無への供物』や『月光ゲーム』などが本当に大切なものではないかということです。しかしそのような解釈に安住することは出来ません。『御矢』や『孤島』の参考文献一覧は『果実』と同じだと書いてありますが、あきらかに出ているネタが異なるにもかかわらず同じだと書いているということは、参考文献一覧が嘘であると作者が告白していると考えなければいけません。それに『孤島』では夏目漱石有栖川有栖と同じぐらい好きだと主人公が語っています。そうだとすれば読解に当たって漱石の作品を抜きに考えることは出来ません。このように古野まほろの元ネタについて考えることは簡単ではありません。しかし、だからこそ考えたくなるのです。古野まほろは本の袖などで自作に対する反応に触れています。古野まほろ自体がひとつの謎としてあり、読者はその謎解きに参加することが出来るのです。『果実』を批判する人でさえその後の路線の修正のために欠かせない一部です。まほろはきわめて自覚的な作家だということが出来ます。