俺の妹がこんなに可愛いわけがない2

今回はかるーいかんじで書きます。※完全にネタバレです。
一作目が好評で続編が作られることになったシリーズものの二作目というのはわりと一作目の正統進化形であることが多いです。自転車創業で買ったちっさな本にもそんなことが書いてあった。で、この作品もそういう感じです。リア充なのにオタクな妹と、そんな妹と仲が悪いけど秘密を共有している兄という基本設定とそこから生まれるギャップの面白さはそのままに、キャラを増やしたり深めたりしています。ということで、
第一章
桐乃の友達が家に遊びに来る回。あやせと加奈子はここで初登場。あやせはこの巻で重要な役割を演じますが加奈子が活躍するのは4巻を待たなければいけません。この回の果たしている役割は、リア充サイドの視点を導入することです。桐乃はリア充とオタク双方に属するキャラですが、彼女の中ではその対立は消化されてしまっているので対立を描くためにはこのようなっキャラが必要となります。当たり前ですがあやせはDQNではなく友達思いの好人物として設定されています。すでに一巻でオタクサイドの人物として黒猫と沙織が登場しているのでした。それともうひとつこの章で見逃せないのが桐乃の性的なシーンが(挿絵つきで)あることです。何を性的な目で見るかは読者の自由なわけですが、もちろんそれは完全に偶然的ではなくて偏りがあります。特にこの場合のような挿絵がついているということは、桐乃が性的な対象として特別に意識されているということを示します。それはテクストが読者に対して桐乃を性的に見るよう促しているということでもあるし、読者が桐乃を性的に見た結果テクストがそれに応えてそのような場面を用意したということでもあり、どちらが先ということは出来ないでしょう。ただそういう意識がお互いに共有されているということは確かです。実の妹を性的な目で見るということは不道徳であるということも出来ますが当たり前のことでもあります。物語においては割りとハードルが低くて現実ではハードルが高いということはいえますが。京介は桐乃のことをどの程度性的な目で見ているのか。客観的に見て可愛いということは繰り返し言っていますがモノローグで妹と性行為したいとかは言ってないので関心が極めて強いわけでもなくないわけでもないという微妙なところでしょう。翻って読者はどうでしょう。それはまあさまざまでしょう。人が人をどのように見ているかなんて多面的であいまいに決まっていて、多くの場合あいまいな状態のままで生きています。人はたいていの人を多かれ少なかれ性的なまなざしで見ていて、どのような行動をとるかも状況と切り離せません。しかしテクストはその存在そのものが厳格であって、流動的である人間とありかたがかけ離れています。人がテクストに多様な解釈を施す姿はあたかもテクストのありかたを解体して自分たちに近づけようとしているようです。
第二章
京介と幼馴染の麻奈美がぎくしゃくする話。麻奈美は普通の女の子ということになってるけど明らかにエロゲキャラだろこいつ! 兄が大好きな妹はゲームの中にしかいないのに天然で世話焼きな幼馴染は普通とはいったいどういうことなのでしょうか。この話では逆に京介が桐乃に人生相談するわけですね。そこで桐乃はリア充のルールを用いて京介にアドバイスします。リア充にも学ぶべきところがあるというのを書いていてほんと政治的に正しすぎる。しかしオタクではない平凡な男子高校生として描かれている京介はリア充理解度においてオタクと同レベルであって、それでいいのだろうか。じゃあ一般的には大学生になってからリア充を学ぶのか? それは僕の経験に照らしてわりと正しい気もするが、それとも永遠に学ばないのだろうか。普通はほんととらえどころがないです。 ある意味ではオタクやリア充を理解するより普通の人を理解するほうが難しい。
第三章
コミケ回。なんか『乃木坂春香の憂鬱』でも同じようなことをやってた気がする。その乃木坂春香は一巻の帯に登場しているわけですが。コミケで人がいっぱいいて大変だー、みたいなのを読んで楽しいのかなあと思います。ここで考えるのは読者はコミケ行ったことあるのかな、ということで、ここからつながる読者がどの程度オタクなのか、という問題はこの作品にとってかなり重要だと思われます。実際のところおそらく読者にそこまで濃いオタクは多くないでしょう。濃いオタクってなんだよ、という問題は面倒なので、コミケにいったことがない人やエロゲーをやったことがない人はかなり読者に含まれているでしょう。そういう人にとっては桐乃や黒猫はオタクという同属であるだけでなくおかしな人でもある。というか黒猫なみに痛い人はそうそういないでしょう。だから読者のオタク度は桐乃と京介の間ぐらいになります。ということは京介のオタクを見る目に対して読者は複雑な関係にあります。京介から見たおかしなオタクの中には読者も入っているのですが、読者はそれでも、あるいはだからこそ、自分より濃いオタクである桐乃たちを笑うことが出来るのです。こういう屈折はオタクにはありがちなことですね。後方からの視点を作り出して前を見るのです。
第四章
クライマックス、あるいはシリアスパート。ヤンデレあやせ、面白いですね。たぶん出た当時はヤンデレがはやっていたはず。話の構図は明らかに一巻の反復なわけですが、細かい部分を変えることで面白くなっている。兄が大好きな妹はゲームの中にしかいないのにヤンデレは現実にいるとはいったいどういうことなのでしょうか。まあそういうキャラが世界をゲーム化していくともいえるか。京介たちの父親はとても厳格な人で、「家長」という感じだったわけですが、今度の敵のあやせはかわいい中学生。京介があやせを説得するときに、犯罪とオタクの因果関係はないと主張するあたりのうすっぺらさが本当にすばらしい。その後との対比も。いやそもそもオタクと犯罪に因果関係はないという主張自体はもっともであり、切迫性を持っているわけですが、ネットで言われすぎて陳腐化してしまっています。ここでの京介の主張はネットで調べただけだし。しかし正しいことっておかしいし、そうであるべきです。正しいことは正しいんだから仕方ない。現実の政治的な話は創作に比べてあまりにも洗練されてないのだからそういうレベルの言葉にも価値がある。で、理論が終わったら次は感情のターンになる。ここで事態を収拾する鍵となるのが前回と同様に京介のかたりになります。前回はオタクであるということでしたが今度は妹が好きだということです。これは嘘ではあるけれど本当の気持ちを代弁しているかもしれないから単純に嘘とはいえない。読者にとってはオタクであって妹が好きだということはあるていど事実なのでそれを京介が代弁しています。しかしここでの京介は別の何かを代行している。京介がこの前に兄と妹の愛の普遍性について語ることで(これもほんとコピペレベルですがそういうところにこそ真実は宿る)読者との共犯関係を離れた、愛の可能性を引き寄せてしまいます。これによって京介と桐乃の関係はより制御が難しい、ぎりぎりのものになります。