読み方、ジャンル、後継者

『探偵小説のためのヴァリエイション「土剋水」』発売直前ということで不定期連載古野まほろ論再び。
『天帝のはしたなき果実』の裏表紙には有栖川有栖の推薦文があり、そこには、本書が『虚無への供物』に人生を狂わされた宇山日出臣の最後の贈り物にして最大の挑発となった、とある。さらに、テクスト中には有栖川や『虚無への供物』の影響を感じさせる箇所が多い。たとえば『果実』の冒頭に掲げられたエピグラフは『虚無』の引用だし、主人公が『月光ゲーム』を何十回も読んでいるということが書かれている。さらに、まほろのルビが多く衒学的な文体は『虚無』と同じ「三大奇書」である『黒死館殺人事件』を連想させる。それに『黒死館』や『ドグラ・マグラ』を意識したと思われる部分も作中にある。
しかし、ここから単純に古野まほろは有栖川や三大奇書に影響を受けているといってしまっていいものだろうか。『天帝の愛でたまう孤島』では夏目漱石を有栖川と並んで好きと主人公が語っているし、多くのサブカルチャーに対する言及も見逃せない。そもそもメフィスト賞受賞作として世に出たという経歴にも留意するべきだ。つまりこの作品には多様な要素が含まれており、単純に何かの影響だと語ることは出来ない。
『孤島』の裏表紙には、「僭越ながら申し上げましょう。この古野まほろ、正統なる後継者、であります。」とある。ここでは後継者といっているにもかかわらず何の後継者かは伏せられている。そもそも自分が後継者である宣言するとはどういうことなのか。たとえば自分が黒い水脈を継ぐものだと表明すれば、それはある程度の伝統と権威を持っているので、単なる奇抜な作品だと解釈されるのを回避し、アンチミステリというような立場からの読解を要求することが出来る。また、メフィスト賞の流れで解釈されるのをある程度抑制する。異端のミステリとしてはメフィスト賞の系列とものもあるが、それに先行する黒い水脈の影響を示すことでそちらの流れだと思わせることが出来る。まほろが一番好きだと繰り返し言っている有栖川からは元を辿ってエラリー・クイーンに行き着くことも出来るし、新本格全体を見ることも出来る。そして有栖川と共に耽溺するとされる漱石はさらに広い射程を持つ。日本近代文学で最大の存在である漱石を持ち出すことにより日本近代文学全体の正統として自らを位置づけ、漱石自体の読み方を変えるようにも要求する。

漱石が蛇蝎のごとく嫌いに嫌い抜いた探偵するこころというのを持ち続ける。それが業だから。僕にそんな性癖と能力を与えた、それが天帝の嘉したまう道だから。(『天帝のつかわせる御矢』)
探偵を「嫌いに嫌い抜いた」漱石は逆説的に探偵小説の祖でもある。「探偵小説」という言葉は狭義の「ミステリ」より広い範囲を持つ言葉であり、まほろはその意味を自ら決めていくと同時に自分の小説は探偵小説であると主張している。つまり、後継であっても、何の後継であるかというところは一定に定まらず、逆に自分から先達の読み替えを要求していく。それはもはや一種の詐術だ。後継が先行者を変えていくのだから。しかし歴史とはそのような転倒を含むものだ。
古野まほろが何の後継者なのか。なぜそれを言わないのか。それは常に書き換わり、書き換えていくからだ。それが「正統なる後継者」の義務だ。