言葉遊び

天帝シリーズの目次には一部の節のタイトルが描かれている。ちょいとそれらを比較してみよう。
オイディプスの血脈」 「支那趣味の茶杯」 「逃げてゆく音楽神」 など『天帝のはしたなき果実』
「ダンスと魔女のサルダーナ」 「ジャックとローズあるいは円周率に係る漱石命題」 「メアリ・サザランド嬢からの手紙」 など『天帝のつかわせる御矢』
「航海」 「絵空事」 「審問」 など『天帝の愛でたまう孤島』
絢爛たる『果実』や『御矢』に比べ、『孤島』の単純さが目を引く。『孤島』の節題はほぼ、フランス語の訳語をカタカナ表記したルビを熟語に振るという形式に統一されている。つまりここではある種の貧しさが選択されている。これは作品全体においても同じだ。『孤島』においてはいわゆる「言葉遊び」が『果実』よりもかなり抑えられている。『孤島』が持つある種の危うさは人を不安にする。たとえば『果実』には瀬尾兵太、『御矢』にはルイーブイ公爵夫人という主人公に助言を与え、正しい方向に導く大人が存在するが、『孤島』において唯一の大人である渋谷美由は高慢で無能な人物として描かれている。閉鎖空間の中で子供たちだけが殺人鬼と対決する状況は心を乱すのに十分だ。
言葉遊びは言葉を意味ではなく言葉そのものとして捉えることによって真実の重みを引き剥がす。その下では言葉を気楽に発することができる。それは事実や思いと一致しないからだ。

「好きだ、君が」
「ありがと。それで?」
「つきあおう、僕ら」
(『天帝のはしたなき果実』)

しかし、逆に言葉遊びが機能しないときには人は真実=言葉を口にすることにためらいを覚えざるをえない。

「僕が」
言葉がこんなに重いものだったなんて。知らなかった。
「夜の海に、なれないかな」
(『天帝の愛でたまう孤島』)

同じ主人公が好意を口にする場面でもこれだけの差違が二作品の間にはある。
そして言葉の海から引き上げられた真実は、探偵が多くのノイズを取り除いて宿命的に暴く真実と重ね合わせられる。

「だからといってもう知らなかった無邪気な探偵に戻ることはできはしない。あなた自ら真実を望んだのだから。それを喋ることを選んだのだから。探偵さん、ひとつ胸に刻んでおくといいわ。語ると言うことは責任を負うことよ。そして責任を負うということは、あなたがいま噛み締めているそういうこと。役者が出場を終え真実の人生に戻るというのは、つまりこういうことよ」
(『天帝の愛でたまう孤島』)

しかし、言葉遊びは真実のために取り除かれるべき剰余に過ぎないのか?我々の言葉は真実を告げる悲劇の使者以外ではありえないのか?
断じて違う。言葉は世界と戦う不可欠の、もしかしたらたった一つの武器だ。それを古野まほろは天帝シリーズの続編、空母「駿河」殺人事件において証明するだろう。

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