訳者あとがきによると、
クリプキは「ある意味で古典的な「
本質主義的
形而上学」の立場を現代に
復権せしめた」そうだ。つまり難しい論理学を僕のようなぼんくら文系でもわかるようないわゆる「哲学」にしてしまった。どういう風にかというと
柄谷行人が「形式化の諸問題」をやっていたときに引用していた(『言語・数・貨幣』あたりだっただろうか)が、固有名の還元不可能性を用いることによってだ。名前とそれが支持するものの関係。ある名前があるものを名指すことが必然的かどうか。ある小学生の女の子がある男を好きだとして、「どこが好きなの?」と聞かれて「スポーツができること」と答えたら「じゃあスポーツができなかったら好きじゃないの?」と返されて「そんなことない」と否定する。好きだという気持ちはそんなことでは変わらないから。だけど「じゃあもし彼と幼馴染でなかったら?」と聞かれたら困ってしまった。そもそも幼馴染でない彼というのが想像できなかったから。
こんな話だと理解した。