ポケットモンスター ルビー・サファイア』でポケモンに新しく「とくせい」が付与され、バトルの幅が広がったという。ところで数値化されたパラメータ以外に固有の特殊能力を持つというアイディアは、『ジョジョ』以降のバトルもので広まっていったとか言っていいのかわからないけれども、人にはみんな違った個性があるという思想に結びついているように思える。みんな違うという事自体は認めてくれない人は少ないだろうけど、人より優れたところがなくて悪いところしかないんじゃないか、とか他の人に分かるほどはっきりしたものはないんじゃないか、と不安に思う気持ちに対して、秘めた個性をはっきりと可視化して、君にも自分だけの優れた能力があるんだと訴えかけてくれると感じるのです。しかしそのようなささやかな自己肯定と結びついたものを名指すことは当然恥ずかしさを伴ってしまう。そこでポケモンに戻ると、「特性」というニュートラルな言葉をひらがなにひらくことでさらにニュートラルになったこの言葉に対しては、どうも拭いがたい据わりの悪さを感じてしまうのです。つまりとくせいって何で、どうしてポケモンはとくせいを持ってるの? タイプやパラメータとはどういう関係にあるの? という問を無視してとくせいはあるのだからあるというゴリ押しをポケモンのような巨大なコンテンツにやられるともやもやが止まらなかった。逆に『リアライズ』のようにスタンド的なアレを「エゴ」とか呼んでもらえると楽だった。
みたいなことを広沢サカキ『アイドライジング!』読んでて想いました。この作品ではずばり「特性」という表現が使われるのだけれどもそれは属人的ではなく、アイドルたちが着るバトルスーツのもので、しかもそれはスポンサーになってる会社の技術アピールのため(F1みたいな?)という設定なので、個人の個性とかではなく消費社会での商品でしかない。どっちにしろ「特性」という語の違和感はやっぱりあって、ここは経済関係の用語とか使う選択肢はあると思うけど、そこであまり色を出さないほうを選んだのか? あとアクセルスマッシュをどうしてアクセルスマッシュと呼ぶのかとかも気になってしまう。