ネット上の時間と空間・続き

http://twitter.com/suyera/status/6131157131
「下級生」とふぁぼったーの比較というのは実のところ僕がこの前書いたエントリと関係している。「下級生」では学校や街のどこかにいるヒロインと出会って会話することで好感度が上がる。つまり偶然の積み重ねが運命と錯覚される。その偶然を起こすのがプレイヤー=キャラクターだ。ヒロインと違ってプレイヤーにとってヒロインとの出会いは偶然ではない。つまりプレイヤーは確率を通して運命を操作できる。キャラクターは運命を知らない。そのことによって運命的な恋愛ができる。ゲームであることを知っているプレイヤーにとっては確率によって運命性がある程度確保される。運命は確率によって実存する。「ソルジェニーツィン試論」とか参照。
で、街でヒロインに出会うということは時間と空間を共有しているということで、それらがほかの可能性を持つということだが、ネットではその人の場所にアクセスすることはアーキテクチャを共有して知っていれば容易なので空間に可能性はない。だから偶然性を剥奪された意志がはっきり出てしまう。その直接性の回避はアーキテクチャによって作られる、というのは正確ではなくてユーザーがそれを必要としたらアーキテクチャを利用して作り出すのもある。ふぁぼったーならリプライより遠くて簡単に好意を表せる。
ネットではどこにでも一瞬でアクセスできる。だからといってランダムにアクセスするわけではなくて障壁が作り出される。ブクマしているサイトは見てしていないサイトは見ないというのが一番わかりやすい。ブクマしなくても特定のサイトを再び見るのは難しくない。ちょっとググる手間が加わるにすぎない。しかしその数秒が絶対的な見る/見ないの差を作り出す。それはリアルでどこかに行くのに時間がかかることとは違う。時間はほとんどかからないのだから心理的な抵抗でしかなく、それは時間の節約ではなくてネットのカオスに自分なりの秩序を作り出すことだといえる。
時間×速さ=距離。つまり時間と空間は結びついている。ネットでは空間がないのだから普通の意味での時間も存在しない。あるのはいまと過去と未来だけであって、その間を計ることはできない。