自分語りと見せかけてゆゆ式論

ネット上で大人気のアニメ「けいおん!」に対してのありふれた、そしてある程度的を射た突っ込み。「音楽してないじゃん」 つまり女の子のキャッキャウフフが大事なんだから音楽とかどうでもいいんだよ!という反論? 反論。音楽は本当にどうでもいいのだろうか? 
けいおんにおける音楽は、ひだまりにおける美術ぐらいの重要度。
という書き込みを何回か見て、なかなかいいコピペだなあ。などと思ってたのだけど、ググったら荒らしとして通報されてるよ! ショックだなあ。けっこういいこといってると思うのに。それはそれとして、じゃあ音楽なしで「けいおん!」をやってみよう、というのが「ゆゆ式」であるといえる。萌え4コマは内容がなくて女の子がだらだらいちゃいちゃしてればよいらしい。「けいおん!」における音楽とかはそれを書くための道具に過ぎない。じゃあなくてもいいんじゃないの? そうすると残るのは純粋ないちゃいちゃだけ。コミュニケーションしているというだけのコミュニケーション。そのような対話は自然とコミュニケーションの条件を炙り出す。三上小又にとって「けいおん!」における音楽の重要度はゼロである。ゆずこたちはコミュのコンスタティブな面を無視してパフォーマティブな面だけを見ているということも出来る。先生はお母さん的な役割を持っているのだからお母さんと呼んでしまおう。普通に考えてお母さん的であることとお母さんであること、お母さんと呼ぶことの間には大きな違いがあるのだが。彼女たちの目にはあらゆるコミュがむき出しの関係性に見える。どうしてゆずこや縁はあんなにあけっぴろげに愛を語ってしまえるのか。彼女たちはそれを変だとはひとかけらも思っていない。ほかの人々と同じことをしているだけなのだ。応えてくれることを望んで存在を投げかけること。すべての会話は愛の告白である(こういうことを高校生のとき考えてたなあ。死ねばいいのに)

追記
http://d.hatena.ne.jp/esorat/20080703
このあたりで「ゆゆ式」について、「ソフト百合SM」ということを言っていますが、これはいいところをとらえていて、つまりボケとツッコミというコミュニケーションにおける非対称性がSM的なわけです。会話での指向性と肉体的なそれの差はここではほとんど存在しないので、ゆずこたちから見ればすべての萌え4コマは(全称命題なんて嘘に決まってる)「ソフト百合SM」に見えるといってもいいです。当然問題になるのは、SMはいいとしても、それがソフトで百合である必要はあるのかということです。ハード百合SM4コマとかかなり読みたいですね。しかしあんまりハードになるとさすがに引いてしまうだろうと思うのでそれを達成するためには周到な準備が必要でしょう。百合について。たとえば「まんがタイムきらら」2009年5月号においてゆずこたちが男だったら嫌だなあ。とかそういう問題はあるので性の問題はいまだに存在しているのですが、基本的には上記のような認識においては性は意識されにくいでしょう。要するにベクトルをやりとりしているだけですから。しかしうまくいえないけどそれを可能にすると同時に不可能にするものが性なわけで、なにが書きたいかというと、(ソースは小学校のときの俺)というのが書きたいので、とりあえず今日はそれを書いて終わりにします。追記したいなー。本来心と体は別なわけで、(ソースは小学校のときの俺)それを同期させるのというのはすごい。

さらに追記
昨日の追記はひどすぎました。いったい何のソースが小学校のときの俺なのかさっぱりわからない。とりあえず基本的なところに立ち返ると、男女が混ざっていると「ゆゆ式」みたいな性的、暴力的なコミュニケーションはしにくい。そのソースが小学生のときの俺です。男が女の胸を触ったり殴ったりするとしゃれにならないので通常それは忌避されます。逆に女が男を殴るのなら許容されます。そのような傾向はニュー速とかでは叩かれて、僕もある程度共感するところはあるのですが、それはそれとして、今は「ONE 〜輝く季節へ〜」を思い起こしましょう。僕たちがあれに惹かれた理由のひとつはコミュに対する鋭敏な感性にありました。浩平と七瀬の対話、というかほぼ一方的に浩平が七瀬にちょっかいをかけるわけですが、その方法は恐ろしく暴力的でした。とてもおもしろいんだけど笑えないような代物でした。それで七瀬が浩平を好きになるあたり本当に恐ろしい話ですが、ここでは普通回避される男から女への暴力が直接殴る蹴るではなしに実現されています。「Kanon」においても真琴の攻撃に対する対処という形で同様のことが起こっています。Keyについてあまり深入りすると筆者の実存が危うくなるのでやりませんが、そこには暴力的なツンデレが主人公を虐待するのとは決定的に違う生々しさ、関係性と結び付けられた身体性があったということです。つまりそれと似たところを「ゆゆ式」に感じるというわけですが、さっぱりまとまらないけどひとまず終了。書いているうちに自分の人生がONEとゆゆ式で尽くされているような気がしてきた。

いまさら追記
そもそも恋愛というのは赤い糸で結ばれた人とするものだが、赤い糸は見えないというのが恋愛のパラドックスでした。そこで普通は定義を捻じ曲げて論理的に恋愛をしようとして差異化が起こるのでした。そしてコミュニケーションは「好き」の絶対性を隠蔽するためにあるわけで、「好き」と恥ずかしくていえないから言うために、たとえば別の意味を載せたり、意味を消したり、迂遠な表現をするのでした。「ゆゆ式」では「好き」を道具とすることで気軽に言うことができるようにしているのでした。しかし三人の間以外ではそこまで進んでないのでいえなくて、なんとか「好き」といおうとする姿が感動的です。これからは相川さんという外部が入ってきたことで三人の関係が崩壊するさまが描かれると思います。あとはゆずこ暗黒時代編とか。