妹が学校の授業で漱石の『こころ』を読んでいるらしい。高校生のとき聴いた話によると日本中の高校生がある時期に『こころ』を国語の授業で扱うらしい。日本人の多くが「先生と遺書」を読んでいるというのはすごいことなのではないか。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」といえばみんなに通じるし「明治の精神に殉死」とかを高校生全員に叩き込んでいるのだから。
ところで『こころ』の主題のひとつに「三角関係」というのがある。先生はお嬢さんをめぐってKと恋敵になり、Kを出し抜いてお嬢さんを手に入れるも、Kに自殺されてニートになり結局自らも自殺する。先生は親友を裏切ってまで手に入れようとした女性を手に入れたのにまったく幸せにはみえない。想いを遂げた時点でお嬢さんの存在は希薄になりむしろ死んだKの存在が重く先生にのしかかるのだ。一見不可解だがよく考えてみるとわれわれの日常生活のレベルでもそういうことはある。手に入れる前は思い焦がれたものがいざ手に入れるとどうでもよくなってしまい、手に入らなかったものは「もし」という思い、ありえたかもしれない可能性としてわれわれの心を揺るがし続ける。そして先生はお嬢さんを選択したように見えて、実はKを選択したのであり、最愛の親友と常にともにあることができた彼はきっと幸せだったのだろう。
CLANNAD』について。この作品のメインヒロインは古川渚であり、それは販促で多く登場するとかヒロインを列挙したときに筆頭に来るというだけではなくシナリオの構造からも明らかである。しかしテキストを丹念に読めば主人公が最もすきなのは渚ではなく坂上智代であることがわかる。各ヒロインたちのシナリオをクリアしたとき、われわれにはヒロインたちが明示的に選択肢として与えられる。通常のゲームならそこで誰を選択するかはプレイヤーにゆだねられ、あいまいな状態のままである。しかし『CLANNAD』においてはわれわれは必然的に渚を選択する。最愛の智代ではなく。しかしそれは逆説的に智代を選んだことであり、AFTER STORYには智代を選ばなかった後悔がつきまとっている。しかし驚いたことに渚もまた正しく正ヒロインである。智也と智代はどんなに好きであっても相性が良くない。パートナーとして最適なのは渚だ。それをわかっているから智也は渚を選ぶ。心の底では智代を想いながら、智也は渚とともに生きて行く。選んだことと選ばなかったことに責任を持たなければいけない。